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鴨南ばん発祥の店

先日、弟から「鴨南蛮発祥の店が湘南台にあるよ」と聞いたので、気になり訪れることに。そもそも鴨南蛮発祥地?というのがと初耳だったのと、湘南台の土地柄と鴨との連想がわかないことも興味が湧いたひとつです。

湘南台駅周辺は、現在は小田急線、横浜市営地下鉄ブルーライン、相鉄線の3路線が乗り入れる人気エリアになっておりますが、私が幼少期80年代から90年代は小田急線だけで、周辺は農家が多く畑と自然が多い土地柄だったことを記憶しています。

当時、母の地元が六会亀井野にある雲昌寺周辺にあり、祖父母の家もあったこと。一時期、両親は雲昌寺近くの土地を借りて家庭菜園をしていたこともあり、畑仕事や雲昌寺のお墓前の芝生でサッカーしたりゴルフをたり、少し歩くと境川があり子供たちが川遊びをしていたり、思い出がある場所です。また湘南台駅周辺にピーポーというおもちゃ屋さんがあり、そこに行くことが楽しみでしょうがなかったもの懐かしい記憶にあります。(笑)

元祖 鴨南ばん 本店
元祖 鴨南ばん 本店

そもそもこのお店は、江戸時代(1810年頃)東京都内日本橋の馬喰町 鞍掛橋のたもとで始まったそうです。馬喰町は、徳川家康江戸入城のころ、府中の馬市をこの町で行うようにし、馬の売買・仲介で栄えた町だそうです。 初め博労町でしたが馬喰町に改められて現在に至るそうです。

江戸城周辺(現皇居周辺)古地図 右下のピンク色がお店があった場所

その後、今の浅草橋たもとに関東郡代の屋敷が置かれると、地方からの公事師(訴訟代理人)のための旅籠屋が増えてきました。
各地から訪れる仕入れ、売り込みの商人たちの出入りも盛んで、大小の旅籠が集中し、江戸一番の旅館街として活況を呈したといいます。
旅館のほか、江戸土産を求める人のために小間物、化粧品、煙草、袋物などの店も多くなり、やがて馬喰町問屋街として開けたそうです。

青山・麻布周辺 江戸時代は徳川家の松平さんが目立ちます。

話はそれましたが

「鴨南ばん」の歩みは江戸時代文化年間(1810年頃)、日本橋馬喰町の鞍掛橋のたもとで始まります。
初代「笹屋治兵衛」は長崎の「南蛮煮」をもとに「鴨南ばん」を考案したところ、たちまち江戸中の評判となり「鴨南ばん」は店の愛称としても親しまれるようになりました。
しかし、治兵衛は後継者に恵まれず「伊勢屋藤七」を2代目として迎えます。山崎叡山が1885年(安政2年)正月80歳で著した「蕎麦道中記」隻六蕎麦案戯書で江戸の名店11選として多くの文献や番付表に紹介されています。藤七は鴨が渡って来ない夏の時期は穴子を使った料理なども出していました。
明治の中頃から藤七の子の「川辺藤吉」が店名を「元祖鴨南ばん」として3代目になりましたが、東京の大半を焼く関東大震災(大正12年)の大火事で店も消失してしまいます。
翌年、弟子の「杉山喜代太郎」が4代目となり当時働いていた職人を集め、区画整理のため店を少し浅草橋寄りに移して再興させました。その後、喜代太郎は震災で全焼した日本橋区の復興を目指して区議会議員になり、その活動が多忙になったため、両国長寿庵で修行をしていた「桑原光二」が5代目を引き継ぎました。この時に妻の「トイ」が「鴨せいろ」を考案し、各地に支店もできたため店名に本家をつけ、現在と同じ「元祖 鴨南ばん 本家」としました。光二の後は長男の「敏雄」が6代目となり歴史を伝えていましたが、街並みの変化により湘南台に本家を移転させ光二の三男の「芳晴」が7代目として引き継ぎました。
当店は8代目で200年あまりの伝統の味を守り続けております。

(お店ホームページより抜粋)

初代 治兵衛の鴨南ばんを食べました。

令和から時をさかのぼり江戸の江戸の味を堪能できます。

お蕎麦も美味しく鴨汁と絡めると、奥深い味わいに

シンプルではありますが、上質な鴨肉とネギとの味わいがたまりません。

拘ればきりがないですが、身近に本物があることは幸せですね。食通ではありませんが懐が悲鳴をあげぬ程度に拘ってみます(笑)